これはゲームデザイン Advent Calendar 2017 の1日目の記事です。公開が遅くなってしまいました。とりとめのない感じで書きます。
私は現在、ゲームデザイン論について調査・研究を行っております。まだ、めぼしい成果は得られていませんが、私がゲームデザイン論を深く学びたいと思った経緯について記事にしようと思いました。同じくゲームデザイン論を学びたいと思った方の何かの参考になればと思います。
私は小学生のころから「ゲームクリエイターになりたい!」と思っていて、RPGツクール2やBASIC(FM-TownsIIのTownsOSに付属していたGearBASIC)を使ってゲームを作り遊んでいました。
それから中学、高校と、VisualBasicやVisualC++を使ってゲーム作りに勤しむようになったのですが、「ゲームを組み立てる技術」は身につけていったものの、肝心の「面白いゲームを考えられる技術」は身につけることが出来ずにいました。
高校卒業後、情報系の大学に入学し、そこでもさらにプログラミング技術を磨いていきますが、やはり「面白いゲームを考えられる技術」は得られません。大学卒業後、新卒で入ったシステム開発会社が半年で倒産し、それを機にゲーム開発会社へプログラマーとして転職し、念願の「ゲーム開発の仕事」に携わることになりました。
仕事では、参画したプロジェクトで開発するゲームのプログラムを作っていましたが、企画職に携わることはほぼ無かったため「面白いゲームを考える技術」を現場で学ぶ機会は得られませんでした。しかし、会社にはベテランのゲームプランナーが居たため、そのベテランのゲームプランナーに相談する機会は得られました。
そこで、そのベテランゲームプランナーに「面白いゲームの企画を考えるノウハウやコツみたいなものってありますか?」と相談したことがあります。そこで得た返答は
「そんなもの無いよ。センスだね」
でした。絶望した!!
ここで言う「センス」は、おそらく自然に身に着けた「感性」や「感覚的な判断基準」を指すものと思います。つまり「面白いゲームを考える技術」は言語化できないということを意味します。
私は「果たして本当にそうなのか?」という疑問を持ちました。そこから、私の「面白いゲームを考える技術」を探す旅が始まりました。
まず、Webのコンテンツからそれらしい情報を集めようとしました。この日本では「ゲームの内容を考える職業」のことを「ゲームプランナー」と呼び、考えたゲームの内容のことを「企画」と呼ぶことが多い印象がありました。なので、調査する際の検索キーワードは必然的に「ゲーム 企画 作り方」というようなものでした。
するとどうでしょう。見つかる情報のほとんどが「ゲームの企画書の書き方」に関するものばかりで、肝心の「面白いゲームの考え方」についての情報がほとんど見つからないではないですか!!!!
これは、あたかも世の中からも「面白いゲームの考え方なんて無いよ。センスだね」と言われているかのようでした。
しかし、実はこのときの調査に使うべきキーワードが間違っていました。細かい経緯は記憶から消えてしまったので若干省略してしまいますが、「企画」ではなく「ゲームデザイン」というキーワードで調査すべきでした。
ついでに書いてしまいますが「デザイン」という言葉は「グラフィックデザイン」を連想されることが多いです。本来「デザイン」という言葉は「設計」に訳され、意味合いは「内容を考えて決めること」であり、「デザイン」という言葉に「グラフィックの」という意味は元々はありません。この「デザインと言えばグラフィックデザイン」という印象は日本語圏での特徴かと思っていましたが、グラフィックデザインに関する書籍『ノンデザイナーズ・デザインブック』の原題が『The Non-Designer's Design Book』であることから、英語圏でも「デザイン」は「グラフィックデザイン」を指す文化があるのかもしれません。
話を戻しますが、私は「ゲームデザイン」というキーワードで調査すべきでした。「ゲームデザイン(game design)」という言葉は英語圏では「ゲームを設計する行為」を指し、つまり「ゲームの内容を考えて決める」という行為を指す言葉として流通しているもので、近年日本語圏においても流通してきており、「ゲームの内容を考えて決める人」という職種を指す言葉としても「ゲームプランナー」でははく「ゲームデザイナー」と呼ばれているケースを多く目にするようになりました。
というわけで、私は「ゲームデザイン(game design)」というキーワードを元に「ゲームの内容を考える技術」について調査をします。そこから「ゲームとは何か?」という話や、「ゲームは何によって構成されているか?」という話、「ゲームから得られる面白みはどのような種類があるか?」という話などを多く得ることができました。
得られた情報の詳細については本記事では説明しませんが(別の機会で書きたいです)、今のところ「ゲームの内容を考える技術」には結びついていません。つまり、現時点で私が得た情報では不足していることになります。これは、すでに語られているゲームデザインに関する主張の多くは「ゲームそのもの」を対象とした分析であり「ゲームの内容を考える」という行為を対象としていないことが原因であると考えています。これについても、また別の機会で書きたいです。
というわけで、私がゲームデザイン論について学びたいと思った経緯と、その他考えを書きました。
ゲームデザイン AdventCalendar 2017 の記事の書き手が今のところ多くないです。ゲーム制作体験談などのゆるい記事も募集していますので、興味のある方はぜひ参加をよろしくお願いします。
2017年12月2日土曜日
2012年3月16日金曜日
ゲームシステムパターン
ゲームシステムパターン。
- ステージ
- 一方向型
- 自由選択型
- 階層型
- アイテム
- スキル
- 合成:アイテムやスキルの合成
- 収集:アイテムなどのコレクション要素
- プレイヤー
- 移動(4方向、8方向、サイドビュー左右方向+ジャンプ)
- 敵キャラクター
- ミス/ゲームオーバー:ペナルティ
- 体力:このパラメータが無くなると大抵ミスという扱い
- 攻撃
- 打撃
- 射的
- 防御/回避
- 会話:専用ウィンドウ内で文が表示される
- 立ち絵:会話主の提示として表示される
- パズル盤面
- メニュー
- 各種パラメータの確認
- アイテム/スキルの使用
- 設定、セーブ
- 情報の表示
- 各種パラメータの確認
- 地図
2011年12月27日火曜日
「悪徳ゲーム」に対する投稿まとめ
過去に自分が「悪徳ゲーム」についてGoogle+に投稿/コメントした内容を転載します。
"ソーシャルゲームの本来のソーシャル的な友達とのやり取り的楽しみを根ざした比較的ヘルシーなソーシャルゲームは、それはそれで良しとして、そうではない催眠商法まがいの"それ"は、悪徳ゲームと呼ぶべき。いや「ゲーム」という神聖な言葉も汚したくないので、ただの「悪徳商法」と呼ぶべき。"
"ゲーム的な純粋な"楽しさ"を提供しているものはヘルシーな経済だと思っていますが、その"楽しさ"的なものや射幸心をあおるような形で銭を"際限なく"巻き上げるというスタイルを"悪"だと言っているのです。そんなものは経済でも富でも愛でも何でもないです。"
"悪徳商法に限らず、すべての経済活動や商取引は、何らかの人間の欲や習性に、ある種"つけこんで"いるわけなので、その主張によって「悪徳ゲーム」も「一般ゲーム」も双方とも悪、もしくは悪ではない、という判断は出来ません。また、裁判にて罪の重さが決められるとき、被告の犯行の意図や、どういう意思に基づいて行った行動なのかということが、罪の重さを左右することがよくあると思います。これと同様に「同じ「ゲーム」という体裁したそれが「どういう意思によって作られているか」」という基準で私はそれに愛を感じたり、悪を感じたりします。「悪徳ゲーム」からは「銭を巻き上げる」という意思がひしひしと感じ取れるので嫌悪感と共に"悪"を感じます。"
"金が回ること自体が"善"だとすれば、ヤクザも詐欺師もお金を回しているという点で"善"ということになってしまう。経済の本質はお金が動くことなんかじゃなくて「誰が誰のためにどう動いて何を生むか」だ。つまり「愛」。いわゆる「悪徳ゲーム」は、愛のかけらも感じられない。"
"「ソーシャルゲーム」っていう名前自体は、もともとは「非同期オンライン的に他人にちょっとした干渉が可能なゲーム」というような意味合いで使われていたので、フリーミアム的悪徳催眠商法的ゲームに対して使って欲しくない。悪徳の方は悪徳ゲームって呼んで欲しい。"
"ソーシャルゲームの本来のソーシャル的な友達とのやり取り的楽しみを根ざした比較的ヘルシーなソーシャルゲームは、それはそれで良しとして、そうではない催眠商法まがいの"それ"は、悪徳ゲームと呼ぶべき。いや「ゲーム」という神聖な言葉も汚したくないので、ただの「悪徳商法」と呼ぶべき。"
"ゲーム的な純粋な"楽しさ"を提供しているものはヘルシーな経済だと思っていますが、その"楽しさ"的なものや射幸心をあおるような形で銭を"際限なく"巻き上げるというスタイルを"悪"だと言っているのです。そんなものは経済でも富でも愛でも何でもないです。"
"悪徳商法に限らず、すべての経済活動や商取引は、何らかの人間の欲や習性に、ある種"つけこんで"いるわけなので、その主張によって「悪徳ゲーム」も「一般ゲーム」も双方とも悪、もしくは悪ではない、という判断は出来ません。また、裁判にて罪の重さが決められるとき、被告の犯行の意図や、どういう意思に基づいて行った行動なのかということが、罪の重さを左右することがよくあると思います。これと同様に「同じ「ゲーム」という体裁したそれが「どういう意思によって作られているか」」という基準で私はそれに愛を感じたり、悪を感じたりします。「悪徳ゲーム」からは「銭を巻き上げる」という意思がひしひしと感じ取れるので嫌悪感と共に"悪"を感じます。"
"金が回ること自体が"善"だとすれば、ヤクザも詐欺師もお金を回しているという点で"善"ということになってしまう。経済の本質はお金が動くことなんかじゃなくて「誰が誰のためにどう動いて何を生むか」だ。つまり「愛」。いわゆる「悪徳ゲーム」は、愛のかけらも感じられない。"
"「ソーシャルゲーム」っていう名前自体は、もともとは「非同期オンライン的に他人にちょっとした干渉が可能なゲーム」というような意味合いで使われていたので、フリーミアム的悪徳催眠商法的ゲームに対して使って欲しくない。悪徳の方は悪徳ゲームって呼んで欲しい。"
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